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カルチャーラジオ

2017年4月 4日 (火)

バッハ一族とその音楽(最終回)

spade第13回 バッハ演奏の歴史と未来 今日のバッハ2
(ラジオ第二「カルチャーラジオ」3月29日放送)
お話:鍵盤楽器奏者・武久源造

バッハの演奏法の変遷
→戦争を経た60年代、二派に分かれる
・伝統派:四分音符があれば楽譜どおりに長くのばして堂々と演奏する
・反体制派(古楽派):古楽器を使い、四分音符は短く切ってノリよく演奏する

この二派がどんどん多様化していく70,80年代
・スウィングシンガーズ 歌いまくるバッハ「ダバダバダバ…♪」
・ジャズ風のバッハ。琴や尺八も入るバッハ
・電子音を使う等、さまざまな換骨奪胎のバッハが生まれた
現代
・ピリオド演奏。古楽器(ex.ジルバーマンピアノ)でバッハの時代になりきろう
・バッハをモダンピアノで弾く派(グレングールド、アンドラーシュ・シフ、……)
60年代のような反目しあう二派ではなく、協力してみんなで研究しようという態度
古楽器の魅力はモダン楽器にない音色
→古楽に限る必要はない。さまざまな音楽、即興演奏をやってみればいい。
その時代を生きている人々の要求を満たす音楽
国境がなくなってきた今日の文明が求めるもの
バッハの音楽はどんなふうに壊してみても、やはりバッハ。未来的な作曲家。
ボイジャーにもバッハの平均律(適正律)のレコードを積載。宇宙人に聞かせたい。
「バッハ一族とその音楽」過去の放送 →ストリーミング  

2017年3月28日 (火)

バッハ一族とその音楽 第12回

spade第12回 近現代の作曲家 今日のバッハ1
(3月22日放送)

モダンピアノが完成したのは1850年ごろ(ショパン1849年没)。
ただし、普及するまでタイムラグがあるので、
実際に演奏されるようになったのは、1900年前後から。

ショパンやリストは、今でいうアンティークピアノの最盛期に活動。
20世紀に入り、ラフマニノフ(1873年生まれ)、スクリャービン、
フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル(1875年生まれ)等が、
モダンピアノの能力を引き出した。
こうした作曲家たちが皆バッハを弾いていたことに注目したい。

1920年代 第一次大戦後、「古典へ帰ろう!」古典回帰運動

・パッハマン(1848年生まれ)の演奏(1920年代の録音)
バッハ「イタリア協奏曲」
 テンポ自由自在、自分の強調したい音を打ち出す
ショパン エチュード
 ショパンの左手を現代風にアレンジしたと宣言して演奏

・ローゼンタール(1930年の録音)
ショパンのマズルカ=ロマンティック。主観的でこってりしている。

・ホロヴィッツ(1935年の録音)
ショパンのエチュード=端正。楽譜に忠実でクール。
バッハの曲=同上→当時の日本の評論家は「音楽ですらない」と酷評

・アントン ウェーベルン(シェーンベルクの弟子)
一つの旋律をどんどん楽器を変えて演奏していく(1935年の録音)
音楽を小さい単位に分けていくという考え方=科学的アプローチ

・ドルメッチ(1858年生まれ) クラヴィコードで平均律を全曲録音
古楽の楽器で演奏しようという発想

・ランドフスカ(1879年生まれ)の録音・録画
ハイフィンガー奏法 テンポが揺れない


<まとめ>
ショパンやリストの時代には譜面通りに弾くなんて考えらず、
自由にアレンジするのが当たり前だったが、
第一次世界大戦で傷ついた1930年代には、
未来を切り開いていくような、メカニカルでクールな演奏が好まれた。

2017年3月22日 (水)

バッハ一族とその音楽 第11回

spade第11回 歌うピアノ(クリスティアンからモーツァルト) バッハ以後の二つの潮流2
(3月15日放送)

バッハの末息子、クリスティアン・バッハの音楽は
モーツァルトへ続く「歌うピアノ」の性格を持つ。 cf.「怒涛のピアノ」(第10回)

<モダンピアノの流れ>
ジルバーマンピアノのアクションはモダンピアノに非常に似ていて、
モダンピアノでは中間レバーを少し改善しただけに見える。
ジルバーマンタイプは多彩な音が出せるまでに進歩していたが、
メンテナンスが大変で一般普及用としては不適格なため、紆余曲折あり。

(A)メインストリーム : ジルバーマン型をシンプルに戻したイギリス型ピアノへ。それがフランス、ドイツへと伝わってさらに進化した。
(B)ウィーン周辺のみ : 別の形で発展。ここにモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトがいた。音楽史的にはここがメイン。

クレメンティ(イタリア生まれ。不遇な境遇から努力を重ねて音楽家の道を切り開き、イギリスで活躍)は(A)のピアノを使用していた。
モーツァルトが使用したのは(B)のピアノと思われていたが、最近の研究により、モーツァルトの時代のウィーンピアノは(A)のタイプのアクションだったことが判明。
ベートーヴェン、シューベルトの時代になって、(B)タイプのワルターピアノ(音色を変えるレバー付)で、月光ソナタ、即興曲などが演奏されたと思われる。


モーツァルトはクレメンティを酷評「歌うピアノが弾けない」「機械的な演奏」
ベートーヴェンはモーツァルトの演奏を「切れ切れの演奏 レガートにできない」
モーツァルトはアウルン・ハンマー嬢の演奏を評して「切れ切れの演奏」
down
「ダメな演奏」を評するときに誰もが皆同じ言葉を使う
「レガートではない!」「切れ切れ」

ピアノで、どこまで歌えるのか!が、永遠のテーマ。
このことを最初に言った人がバッハ。
「カンタービレの演奏を学んでほしい」「歌うように」と指示。
レガートとは、音そのものは切れていても「音楽的につながっている」こと。
その解釈は微妙な問題。鍵盤奏者にとっての課題。

【バッハが後世に与えた影響】
・古典派
「歌うアレグロ」を発明した。
バッハのシンフォニアのメロディー≒モーツァルトのピアノソナタ
バッハのフーガ≒モーツァルトのフーガ
(クレメンティもモーツァルトもバッハの平均律の楽譜を所持。実際に練習しただろう。)

・ショパン
 ショパンは自分の曲よりもバッハの平均律をよく練習していた(弟子の記録)。
 対位法的にできている曲(例えばマズルカ39番)はバッハのフーガの影響あり。

・チャイコフスキー
 バッハのフーガを弾くと、新しいアイデアが生まれる(本人の日記)。

最後のひとこと:
ピアノに「カンタービレ」の味付けを求めすぎ、味付けが濃くなりすぎた結果、
シンプルなものへという回帰現象が起き、近年の古楽ブームに至るのではないか。

2017年3月 9日 (木)

バッハ一族とその音楽 第10回

spade第10回 怒涛のピアノ(エマーヌエルからベートーヴェン) バッハ以後の二つの潮流1
(3月8日放送)

「天才」「名人」という呼び方で音楽家を呼ぶ言い方は
バッハ以降に流行したこと
→モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、リスト等
 (大変な努力で名人になった人=クレメンティ、ベートーヴェン)
 (生まれながらの天才=モーツァルト)

上手い人、巧みに弾く人は大勢いるが、
現代(民主主義の世)では、このような言い方はしない。
バッハの言葉
「誰でも努力すれば、私ぐらいにはなれますよ」
つまり、名人を認めていない。民主主義の世の中を先取りしていた。

エマヌエル・バッハの言葉
即興演奏、移調能力、初見演奏 =鍵盤楽器奏者に求められる能力
大事なことは奏者が自分で聴いて、学んで、自分のものにするほかない

ツェルニーの報告
ベートーヴェンは天才少年フランツ・リストに会おうとしなかったが、
リストがバッハのハ短調フーガを即座に移調して弾いたのを聞いて
ベートーヴェンはついにリストの能力を認めた。

即興演奏は、20世紀前半までピアニストに求められる能力だった
ジャズ・ピアニストとの分業の中で、即興演奏が求められなくなっていった

・ブリリアントな演奏
・レガートな演奏
二つの演奏法のレールを敷いたのが、J.S.バッハ。
バッハの曲はベートーヴェン、ツェルニーによって演奏され、引き継がれた。

ベートーヴェン
エマヌエル・バッハの教則本で勉強。
ソナタ「悲愴」には、J.S.バッハのパルティ―タ2番からの着想が見える。

リストもバッハの曲を数多く編曲している。

2017年3月 8日 (水)

バッハ一族とその音楽 第9回

spade第9回 クープラン、ラモーとその弟子たち ~バッハと同時代の音楽家たち2~
(3月1日放送)

「フランス風序曲」(フランス組曲)
との絡みで、フランス音楽との関わりを語るのが今回のテーマ。
この形式を始めたのはリュリ。イタリアからフランスに来た人。

バッハの生きた時代、音楽世界はイタリアとフランスで回っていた。
イタリアで新しいアイデアを思い付き、
フランスに行って皇族の後ろ盾を得て、発表する
という流れ。

当時、バッハより実力が上と考えられていた音楽家たちの手になる
フランス組曲を実際に聴いてみると、
すべて同じスタイル、パターンで書かれていることがわかる。
ヨーロッパのどこの宮廷でも演奏された、流行した曲。

フランスのクープラン、ラモ―は、フランス人らしく
ちょっと気取って、気を抜いて洒脱な装飾音符を使った。
シャカリキになるドイツ風とは一線を画している。

フランス語は、発音しない文字をたくさん使う言語。
会話でも遠回しにものをいうのがエレガント、という意識がある。
「趣味がいい」という言葉で、感覚的に音楽を判定したのが18世紀。
それ以前の理論的に判定された(和声法など)時代とは異なる。
彼等にとってドイツのバッハなど、まったく眼中になかった。

一方、バッハは楽譜を取り寄せてよく勉強していた。
単に真似するだけでなく、スタイルを取り入れたうえで
「バッハ風」にしている。お見事。

ジルバーマンピアノが完成していく時期は、
フランス革命に向かっていく時代。
ジルバーマンピアノはベルサイユ宮殿にも入っているが、
間もなく王族は滅亡する。
最後のベルサイユ宮殿に使えた音楽家は、ラモ―の弟子だった。

バッハ一族とその音楽 第8回

spade第8回 ヘンデルとスカルラッティ ~バッハと同時代の音楽家たち1~
(2月22日放送)

バッハ、ヘンデル、スカルラッティが同じ年の生まれだったとは
初めて知りました。(1685年生まれ)

で、ヘンデルとスカルラッティは、国際的な音楽家になろうという野心を抱き、そのとおり派手に活動したのに対し、
バッハは、ひのき舞台に立とうという意識は全く持っておらず、
ヘンデル、スカルラッティには田舎者として見下されていた、
(地元近くを訪れるヘンデルに会ってほしいと頼んでも無視されたり…)
とのこと。

ドイツの田舎に籠っていたバッハでしたが、どっこい、
彼は、新しい楽譜を取り寄せて、ちゃんと勉強していたのでした。

ヘンデル、スカルラッティはオルガンとチェンバロで「腕比べ」をして
オルガンではヘンデルが上、チェンバロでは両者互角という裁定が下されます。
この結果について、スカルラッティは終生「実はチェンバロでもヘンデルが上だった」と語っていたのに対し、
ヘンデルは大変高慢なふるまいをした人で、敵も多かったらしい、とのこと。

ヘンデルは、
「ヘンデルがオルガン協奏曲を弾く」
というだけで話題になり、多くの人が集まったほど人気が高かった人。

一方バッハは、世の注目を浴びることではなく、
よりよい音楽を作ることに邁進していった人。
そんなバッハが関わったジルバーマンピアノは、
明らかにチェンバロとは異なる響きを持っていて、
ちょっとした改良で、音が格段によくなる…ということを、
講演者の武久源造氏は、実際にご自分の手で確認されたとのこと。

バッハは、製作者ジルバーマンとの協力体制のもと、
楽器に改良を加えていったに違いない
ピアノという新しい楽器の可能性に気づいていただろう
……というのが結論でした。

2017年2月21日 (火)

バッハ一族とその音楽 第7回

spade第7回  父と子の対決#3 息子たち、それぞれの人生と音楽
(2月15日放送)

バッハの子どもたち20人(10歳までに10人が死亡)
わが家の女の子は皆プロ級に歌がうまい」バッハのことば
女の子のうち、結婚したのは一人だけ。
末っ子の女性は晩年、金銭的に困窮。それを知った音楽仲間が
「バッハの子を助けよう」と呼びかけ、応じた中にベートーヴェンもいた。

オルガンは鍵盤を押せば正しい音が出る
だれでも、ちょっと練習すれば、私ぐらいになれるだろう

→父バッハのことば。こんな発言をする音楽家はあまりいない。
実際に音楽家として活躍したのは、男の子5人。
魔女裁判などがまだ続く中世の世において、彼等は時代に先駆けていた。
フリーデマン、エマーヌエルは、父と同じような音楽を作ろうとは思わず、
新しいことをやろうと、もがいていた。
長男・フリーデマン
野放図・ボヘミアン。
遺産相続した父の楽譜を売って金銭を得たり、自分の楽譜だと偽ったり。
→散逸した楽譜が多い。

次男・エマーヌエル
フルートと戦争の好きな大王フリーデマンに仕える。
テレマンの死後、ハンブルクの彼の仕事を引き継ぎ、裕福に。
(エマーヌエルの「フィリップ」というミドルネームの名付け親がテレマン)
エマーヌエルには、彼の「もがき」が伝わるような疾風怒濤の音楽が多い。
末息子・クリスティアン 
唯一国際的に活躍。
「ロンドンのバッハ」と呼ばれた。
「国際的になりたい」と思って行動した人。
ドイツに生きた父には、こういった発想はなかった。
モーツァルトを教え、音楽をやっていく上での基盤を作った。
カトリック信者に改宗し、43歳まで生きる。
まとめ
バロック→古典派→ロマン派
と時代が流れるが、古典派への流れを作ったのがバッハの子供たち。
しかし、
バッハ、モーツァルト級の巨匠は、この流れを飛び出している。

2017年2月14日 (火)

バッハ一族とその音楽 第6回

spade第6回 父と子の対決#2 エマーヌエル・バッハとクリスティアン・バッハ 
(2月8日放送)

今さらですが、これ、NHKラジオ第2放送
「カルチャーラジオ 芸術その魅力」という放送を聞いての覚え書きです。
私は放送後に、ストリーミングで聞いていますが。。。

さてさて、バッハの20人もの子どもたちのうち
音楽家になった息子たちの話の続きです。

前回、話題にした長男・フリーデマンと、今回のメイン・エマーヌエルは、
1人目の奥さん、マリア・バルバラとの間の子。
実は父のJ.S.バッハは、政治的になかなかの人物だったらしく、
ドイツが二手に分かれて戦争をしていた7年戦争の時期、
一方の大将(ドレスデンのアウグスト公爵)の下にフリーデマン
もう一方の大将(ベルリンのフリードリヒ大王)の下にエマーヌエル
を送りこんで、
どちらが勝利しても、自身の身は安泰となるように仕組んでいたとか。

エマーヌエルは多作で、バッハ一族の中で一番の出世頭。
疾風怒濤の暴走族的音楽で、生前は父よりも有名になり、
ゴージャスなオーケストラを自由に使える身分にあったのでした。
で、後のハイドン、ベートーヴェンに影響を与える存在となります。

で、負けた側になってしまったフリーデマンはというと、
(アウグスト公爵はマイセンの陶器にのめり込むあまり、斜陽に…)
父に見捨てられた、捨て駒になった、という意識でグレてしまい、
その晩年には行方不明になってしまったのだそうです。

さて、クリスティアンは、2人目のアンナ・マグダレーナとの間の子で
バッハが53歳のときの末っ子。
父と過ごした時間は長くないものの、秘蔵の鍵盤楽器を贈られていて
可愛がられていたことがわかるのだとか。
このクリスティアン、
イタリア、そしてイギリスに渡り、ヘンデル亡き後の当地で活躍。
生涯ドイツに戻ることはなかったとのこと。
(その背景には、前妻の子たちとの不仲があったらしい。。。)
で、後のモーツァルトに影響を与え、
クリスティアンモーツァルトを膝に載せている絵も残っているとか。

さらに、ピアノの歴史との絡みについても言及が。
これらバッハ一族がみな揃って、
ジルバーマンピアノを弾いていたことに注目しましょう、と。
その後、ジルバーマン一族は、グループに分かれ
イギリスへ、あるいはフランスへ、ウィーンへと居を移し、
それぞれの地において、ピアノという楽器の元を作ることになるのでした。

2017年2月 6日 (月)

バッハ一族とその音楽 第5回

spade第5回 父と子の対決#1 バッハと子供たちのアンサンブル

放送第4回(投獄)、第3回(演奏腕比べ)は、1717年のこと。
今回は、1720~30年代にスポットを当てる。
20人もの子供がいたバッハが、子育てに奮闘した時期。
これほどの子だくさんは、作曲家としては異例。
(せいぜいシューマンの5人。ハイドン、ショパン、ブラームス、いずれも子なし)

20人中、プロの音楽家となったのは4人。
うち、エマーヌエル、クリストファーの2名は音楽史上も貢献大。

まずは、長男・フリーデマン
彼は、鍵盤楽器奏者としては優秀で、
成人するとドレスデンの宮廷楽団に就職、活躍したのですが、
人格的に問題があり、晩年には行方不明になってしまいます。
父バッハが子育てに失敗した結果と思われ……。
(詳細は後に譲る…とのこと)

バッハが子育てに夢中になった時期、
彼は、子どもたちへの音楽教育も念頭において曲作りをしていました。
その例として、講師自らと協力者の2名で
ジルバーマンピアノ2台での合奏曲の演奏を披露。
CD録音のオルガン演奏と、ジルバーマンピアノの響きの差も確認。

実際、バッハは子どもたちを引き連れて、
自宅や近所で、ピアノ、チェンバロでよく合奏していたとの記録が残っています。

1720~30年代のドイツというと、特に事件もない退屈な時期
という歴史的イメージがあるのですが、
実は、18世紀末の大事件(アメリカ独立宣言、フランス革命…)へ向けて
歴史的な胎動があった時期。
その意味で、芸術的、美的な視点から見ると、なかなか面白い時期でもあるのだそうです。

2017年1月30日 (月)

バッハ一族とその音楽 第4回

spade第4回 バッハの人生における最大の試練その2 契約違反と投獄

ワイマールの宮廷楽長の職にある身分のまま、
ケーテンの宮廷楽長職にサインしたバッハ。
(ワイマールの共同統治者二人のうち、若い方の結婚相手の兄がケーテン領主)

普通なら、経緯曖昧なまま異動できたかもしれないが、
マルシャンとの腕比べで名を挙げたことが仇になり、
ワイマール領主の片割れ(年配の叔父の方)の怒りを買い、ついに投獄される。

バッハの学友ゲルバーの息子の記録には
バッハは、楽器もなく苦しい状況におかれたときに平均律を書き始めた
という記述があり、1ヵ月にわたるこの投獄期間を指すと思われる。

30代前半という働き盛りの時期に、この苦しい状況に追い込まれて
まさに新スタイルの音楽(=平均律)を書いた。

・フレーズの息の長さは、新境地
・黒鍵が多い変ホ短調(フラット6つ)での作曲は世界初
pencilこの曲想の特徴は、後にショパンに引き継がれることになる

moneybagバッハの生活を経済的に見ると…

(1)住み込みの弟子(1日6時間のレッスン&バッハ作品の写譜を許可)から
 レッスン料として年額 80ターラー(100万円くらい)を受け取る

弟子による写譜を見ると、バッハは何度も推敲を重ねている。
pencil時間をかけて曲の完成度を高める精神は、ベートーベン、ブラームスへ。

(2)バッハの最高年収、妻と合わせて700ターラー
leftrightベートーヴェン
 作曲した曲を貴族に捧げ、
 その貴族から1曲あたり700ターラーを受け取ったうえ、
 楽譜の出版にあたっては、同額程度を出版社から貰っている。

dollarベートーヴェンの時代のウィーンは、
ナポレオン侵攻でお金が回り、貴族には金があった。
 戦争特需のバブリーな時代。それが音楽にも表れている。
 バッハの時代とは、稼ぎ方が全く違う