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2008年12月23日 (火)

『日本語が亡びるとき』

『日本語が亡びるとき-英語の世紀の中で-』水村美苗

日本語、国語を教える立場の者には、大変刺激的な本です。
はっとさせられる内容が散りばめられています。

衝撃的な題名ですが、「英語の繁栄→日本語の滅亡」という一直線の議論ではありません。
明治期に「国語」が生まれることのできた歴史的背景、経緯、などを改めて解き明かし、言語を次の3種に分けて論じます。

〈普遍語〉(「叡智を求める者」の思考共通言語としての書き言葉)
〈国語〉(ナショナリズムの台頭とともに生まれた国家語)
〈現地語〉(いわゆる「母語」としての話し言葉)

かつて、〈普遍語〉といえばラテン語、のちに仏・独・英の3ヶ国語であり、
これらの言葉を「読める」者が、「書き言葉〈普遍語〉」と「話し言葉〈現地語〉」の二言語使用者として、インテリ層を形成していたのですが、
いまや、〈普遍語〉といえば英語の一人勝ちとなり、仏語、独語は、日本語と同じカテゴリーにまでなりさがってしまった、という話。

明治期、日本近代文学黎明期の作家たちが、いかに上記の「ニ言語使用者」たるインテリであったか、という話。
そして、その「ニ言語使用者」たちを通して、「国語で大学教育を行う」ことがいかに達成されていったのか、という話。

そこまでのインテリ、「叡智を求める者」たちの苦心の結果として手に入れた「国語」を、後世の者達がいかにおろそかに扱ってきたか、という話。
文部省、文部科学省が、いかに愚かに「国語を変えよう」としてきたか、という話。

ふりかえって現在の世に、もし漱石ほどの「叡智を求める者」がいたとしたら、果たして日本語で小説を読んだり書いたりするだろうか、という話。

……ひとつ、ひとつが、分かりやすいエピソードとともに説き起こされていきます。
「ほう」「ううむ」と唸りながら読みたくなるような本です。

★教育について述べた箇所をピックアップしてみると…

・日本における〈大学〉とは、大きな翻訳機関=翻訳者養成所として、日本語を〈国語〉という、その言葉で〈学問〉ができる言葉に仕立て上げていった場所である。(p.211)

・それが、今、英語が世界を覆う〈普遍語〉になるにつれ、日本の学問の府は、大きな翻訳機関に留まるのをやめようとしているのである。(中略)特殊な分野をのぞいては、日本語は〈学問の言葉〉にはあらざるものに転じつつあるのである。(p.257)

→【私の「なるほど」!】
日本政府が、「留学生30万人計画」などと言いながら、
国立国語研究所から「日本語研究」部門をなくし、
日本語教育には予算をつけず、英語による授業に予算をつける、といった動きは、
これに連動するものだったのですね。

・学校教育を通じて多くの人が英語をできるようになればなるほどいいという前提を、学校教育の場において完璧に否定する。(中略)インターネットの時代、もっとも必要になるのは「片言でも通じる喜び」なんぞではない。それは、世界で流通する〈普遍語〉を読む能力である。(pp.288-289)

→【私の「諸手を挙げて賛成」!】
インターネットに関わらず、まず必要なのは文法力と読む能力だと私は実感しています。
今の日本の教育政策は、いったいどこへ向かおうとしているのでしょうか?


筆者は、このあと〈読まれるべき言葉〉を読む国民を育てる、という視点を欠いた教育を批判し、現在の国語教育はアメリカの「dumb class (お馬鹿さんのクラス)」の教育に似ているとまで言います。
教育とは、家庭環境が与えないもの、市場が与えないものを与えるものである、
迎合するものではないと。
これまた、賛成!

ただ、今の日本の文学、さらにはハリーポッターブームなどに対する筆者の嘆きには、
共感しかねる部分も。
「読まれるべき言葉」ではない、叡智を求める行為とは次元が違うものという論調ですが、
私自身は「楽しんで読む」文学にも十分意味があると考えます。

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