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2006年4月 3日 (月)

篠田節子とクラシック音楽

先日お約束しましたので、『秋の花火』所収、音楽関係の短編をご紹介します。

「ソリスト」
世界的なピアニスト、アンナ・チェーキナと、「青春の一時期、ソ連の音楽学校で共に学んだ」神林修子の物語。卒業後30年月日を経て、修子は「キャンセル癖」で有名なアンナを地元のロシア音楽祭に招く。が、案の定、会場至近のホテルにチェックインしたアンナはコンサートに現れず、修子がその代役を勤めて1曲アンサンブルを終えた後、やっと…

話の山場は、音楽性の描写にあるというより、「なぜアンナはソロを弾かなくなったか」の謎解きにあります。アンナに手をひかれ、舞台上でアンコールでのソロの譜めくりをすることになった修子が見たものは…アンナが生きのびるために背負った政治的取引とは…
「人間としての誇りのすべてを捨てて、ピアノのために身を捧げてきた」アンナ。彼女を描く中で
「一流の演奏家は、人間的にも一流だなどという役人の言葉は、素人の抱く幻想だ」
と言い切り、才能といわれるものの正体の一例をあぶりだそうとしています。

「秋の花火」
高名な指揮者、清水孝允と、「プロともセミプロともいえない」楽団「イ・ソリスティ・トウキョウ」のメンバーとの交流を描く…というと叙情的小品を思い浮かべるかもしれませんが、さにあらず。
25周年を過ぎた「イソリスティ・トウキョウ」の一員である「私」(名前が伏せられていることに今気づいた…)の目から、彼女自身が他メンバーに抱く淡い感情も織り交ぜつつ、先生の、ある意味みじめな晩年が綴られます。

福祉タクシーで乗りつけ、舞台に上り、ギプスで固めた手で棒を振るや
「音楽は荒々しい生命を吹き込まれ、躍動し、変幻自在に広がり、きらめくような色彩をたたえて流れはじめた」という奇跡をひきおこす先生と、
排尿さえままならなくなっても、「抽象的な『女』という生き物に執着を持ちつづけている」姿を曝し、「私」に「哀れみでもなければ、悲しみでもない。何か厳粛な思い」を抱かせる先生。
*********************

二作とも、音楽的には天分に恵まれたとはいえない女性の視点から描かれる、音楽家として成功した人の物語となっています。
テーマは「天才が抱える事情の重さ」とか「人間の業」とでも言うべきものでしょうか。
読後感は決して重くはないのですが、でも、「キャーおっもしろい!」とばかりに読んだ『女たちのジハード』とは、かなり趣が違いました。うーん、深いぞ。

篠田節子さん、ご自身でもチェロを弾かれるそうですね。
他にもたくさん、クラシック音楽を題材にしたものを書かれているようです。
ちょっと「のめって」みようかな。

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